虹のバトンを受け取ったら
いうまでもなく素晴らすぃ
μ'sらしさ、Aqoursらしさに続く
「虹ヶ咲らしさ」を見つけられたと思います。
今回は、13話で見せたみんなの成長もあるんですけど、たくさんありすぎて扱いきれないので、虹ヶ咲らしさっていうスーパー抽象概念に焦点を絞って、自分の言葉にしていけたらなと思います。
ではさっそく。
シリーズ全体からみての「虹ヶ咲らしさ」ということで、
ラブライブの歴史を振り返ると、天候操作するのシーンって割とありますよね。
「雨、やめーーー!!!」とか、正座早見表を掲げて願ったりとか。
虹ヶ咲も「虹」ですし、そういった描写はあるのかなと思っていましたが、まああったような無かったような?
止んではいますが、思ってた形(止ませたい時に止む)とは違うってところで一概に一緒にはできないかな、と思います。
で、ここで高咲侑という主人公に目をやってみようと思います。
みなさんがどうかは分かりませんが、僕的には高咲侑に(少し大袈裟ですが)どこか「超人」めいたものを感じてたんですよね。
ラブライブに出なくてもいいという考えだったり、自分の夢に正直に進んで形にしていくことだったり。
いい意味で普通じゃないような。
やっぱり物語を巻き起こすだけの理由があるなって思ってたんです。
だからこそ、
どうせなら、たくさんの人に見てもらいたいじゃん?
だってこのライブは、私たちが頑張って作り上げたものなんだから!
てセリフが、うんうんって首がもげるほど頷けるんですよね。
自分と同じトキメキ、楽しさをみんなにも感じてもらいたいっていう、なんというか、自分勝手に他人を思いやるみたいな感じ(語彙力)が主人公感出ちゃってる。
けどそれとは裏腹に
自信が欲しいんだよね
怖がらないで、自分の夢に向かっていけるはずだって、思いたいんだよね
そうだよn……え、まじですか。
そんな、一般人ぽいこと言うんですか……
いやでも、そう言うんなら、きっと僕の認識が違ってたんでしょうね。
高咲侑は超人ではなくて「ただ人より少しだけ頑張れる」だけ。
だから、一般人には天候操作なんてできませんから、雨を止ませることもできなかったし、人並みに諦めることも手段のうちにあって(1話もそういうムーブメントあった)
努力だけで夢を追いかけて手にしてきた人だからこそ、時間とか天気とか「努力じゃどうにもならない範囲」になると諦めるしかなくなってしまう。
侑ちゃんの諦め癖にはこういう理由があるんだと思います。
でも、そんな時に手を引っ張ってくれる仲間たちはもうたくさんいて。
自分の方法ではどうにもならなくなったとき、
自分の努力で出逢ったキセキが道を示してくれる。
そんな関係性が死ぬほど好きだし、
その輪は既に
メンバーだけじゃなくて、
こんなにたくさんの人が関わって、支え合っている。
「みんな」で作り上げたスクールアイドルフェスティバルは、「みんな」に愛されて、「みんな」が幸せになれる。
たった1人のアイデアから始まった夢はもう、1人のものだけじゃなくなって、すごい熱量を帯びていて。
でも、あくまで「ソロ」であることが前提にあるから、
最後に走るのはそれをやる本人なんだと。
ここに「虹ヶ咲らしさ」を感じると同時に、
僕、既視感あるなって思ったんですよね。
まあ、水泳をやってた経験からなんですが。
(水泳だけじゃなくて個人競技のスポーツ全般に言えますが)
基本的には水泳(競泳)も1人の舞台で、どんなに自信が無かろうがなんだろうが、結局泳ぐのは自分で、他人に代打は頼めない。
それでも仲間達は最善を尽くせるようにサポートしてくれる。
んで、同じように自分も仲間のレースの時には最善を尽くせるように応援するし、
応援するのはマネージャーだけではなくて、チーム全体でその人のために応援とサポートをしていく。
今回そういう構図が重なって見えました。
担当回(レース)をする人を全力で応援していく。
でもあくまで応援するのであって、代わりにやってあげるわけではない。
そうやって1〜12話までやってきての、今回の13話
13話では、ステージに上がる人だけを選手とするのではなくて、
「夢」「叶えたい景色」があるっていうレベルでみていったから、高咲侑という選手をメンバーが応援する形になった。
ついでに言うと
水泳も、種目が同じなら競争心は生まれるし、なんなら一番意識する相手でもある。
スクールアイドルだって、同じステージで仲間はより強力なライバルとなって立ちはだかるでしょう。
互いに応援して、応援されて。時には競い合って、「仲間でライバル」
そんな関係性が出来上がる。
実際自分も体験したので死ぬほどわかります。
繰り返しになりますが、13話では侑ちゃんという選手をメンバーが応援するという形、
支え・支えられ(一人一人が選手でありマネージャー(侑ちゃんは支えるだけのマネージャーではない))という関係を再確認させたことで、
侑ちゃんは自分の夢に向かってまた、走り出すことができた。
これも繰り返しですが、あくまで、再び走り出したのは侑ちゃん本人で、誰も代走はしてない。
極端に言えば
自分の夢は自分で叶える
一見冷たい言葉のようだけど、そこに暖かさを感じられるのが「虹ヶ咲らしさ」なのではないでしょうか?僕はそう思ってます。
ここからちょっと話題は変わって「応援ソング」の話をしたいと思います。
Q.応援ソングの何が良いのか?(哲学)
A.応援してる人から、物語と共に応援されること
個人的にはこれに限ります。
結局応援ソングの歌詞を並べた時って、割と陳腐になりがちだし、変わり種だと「応援ソングは陳腐だぜ〜」なんて皮肉を歌詞に織り込んである歌もあったりしますが、
それでも応援ソングってのは尽きないんですよね。
なぜなら同じ歌詞でも全部違うから。
どんなアーティストでも、応援する人に応援されるっていう構図に変わりはないんですけど。
それぞれのアーティストの持ち味、らしさが込められるから同じ内容でも全然違って聞こえる。
まあ例えばですけど、
虹ヶ咲と湘南乃風(個人的に好き)が「明日は来る」みたいな歌を歌った場合、目に見えてニュアンスが全然違って来るじゃないですか。
さっきの虹ヶ咲らしさを使うなら、虹ヶ咲の明日が来るは「夢に向かって明日も走っていく」みたいな感じでしょうか。
で、湘南乃風だったら「生きてさえいれば明日がある」みたいな。(ド底辺(褒め言葉)な感じが湘南乃風らしさと思ってる)
やっぱり死ぬほど違いがある(自己解釈だけど)
これが応援ソングが無限に生み出され続けられてる理由であり、応援ソングが好まれる理由でもあります。
だから今回の挿入歌、「夢がここから始まるよ」は、虹ヶ咲のアーティスト性が見える応援ソングになってるわけです。
が!
ただ、虹ヶ咲ってのは「自分で走る」ことが多かったので「人を応援する」ってのはあるようでなかったんじゃないですかね?
(明確な線引きがあるわけじゃないのでその辺難しいけど)
今までにない応援する側のスタイルの「新しい虹ヶ咲」にも出会えた回だったと思います。
では、最後になぜその新しい虹ヶ咲がすんなり馴染んだのか、という話で締めましょう。
夢がここから始まるよは、どっからどう見てもメンバーto侑ちゃんの応援ソング。
決して直接我々に向かってのものではないのにも関わらず、その歌詞が涙を誘ったのはなぜでしょう?
その答えは簡単で、侑ちゃんをあなたちゃんと同一視できたからです。
侑ちゃんとあなたちゃんは同一人物なのかそうじゃないのか論争は後を絶ちませんが(?)、その答えであるように思えるんですよね。
メンバーの手の先に自分をイメージできたからこそ
「応援してる人の物語を乗せて応援される」という応援ソングの関係が成り立つ。
でその同一視をより一層助けたのが、きっと13話の主に前半のことなんですよね。
最初の方で「侑ちゃんを超人のように、主人公のように感じていたけど、単に自信が欲しいっていう"等身大"な部分もある」って話はしたかと思います。
そこですよね。
一人一人がそれぞれの人生の主人公であるけど、一般人という属性も捨てきれないからこそ、「主人公格」から「頑張ってる普通の高校生」になった侑ちゃんへの共感とかが一層増したことによって、
まるで自分が応援されているような、
まるで自分を応援しているような、
そんな、より力強い応援ソングとして受け取れるようになったんだと思います。
さて、歯切れが良いのか悪いのか、とりあえず言いたいことは言えたので、ここらで終わろうかなとも思いますが、、
アニガサキ、終わっちゃいましたね……
全13回やりましたが、毎週見てくださる方もいて、こんな拙い妄想の文章をよく読んでいただけたなと、我ながら思います(改善しろ)
お付き合いいただき本当にありがとうございました。
もしよろしければ、2期(あれば)とかライブ感想談とかで、これからも残したい・言いたいことがあったら随時更新していきたいなって思ってるので、見ていただけたら幸甚です。
それではまたどこかで〜